テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(特別編)
テレビマンユニオン史とウルトラクイズの話、今回は特別編です。
前回は井上雅子さんのウルトラクイズのお話を取り上げたのですが、
井上さんに関するとても切なくなる話が「テレビマンユニオン史」にありましたので
書き起こさせていただきます。
(鶴野さんは第7回~第11回ウルトラクイズのプロデューサーの一人でもあります。)
「井上雅子夫婦が遺したメンバーシップ」(鶴野徹太郎)
●八六年冬、若手プロデューサーの井上雅子さんは休みがちでした。
重苦しい冬の夕刻、彼女のご主人から「会いたい」「でも女房には内緒に」との電話があり下北沢で会いました。
彼が切り出した話は
「彼女はもう手遅れで、余命半年から一年」「彼女は告知を知らないでいる」
「病気でユニオンのみんなに迷惑をかけるから退職して別の仕事を始める・・・と彼女は独立の準備を始め、事務所を借り準備を始めている」
「そんな事したら余計命を縮める。何とか思い留まらせてくれないか。
ユニオンの親しい人達に囲まれた中で過ごさせたい」。
「一切の責任は私が持つ」 衝撃でした。
それから重延さんに相談し、社内の数人の協力者を得て、彼女の治療と意思に差し障りの無い仕事が出来るべく「プロジェクト雅子」が動き始めました。
春頃に、彼女の笑顔がオフィスに戻り、彼女の企画書も動きました。
「世界ふしぎ発見!」にも彼女の国際電話の声が響き、新しく出来るカザルスホールの準備室にも彼女の笑顔がありました。
そして余命半年どころか、二年近くの八八年の一月十五日に去って行ったのでした。
甘えの無い関係や、爽やかな自立というメンバーシップへの遺産を残して、親しい仲間たちに囲まれながら・・・・・。
最後の入院前の夏、人気の無い時間、彼女がデスクに来ました。
「鶴野さん、あまり無理しちゃ駄目だよ・・・私ネ、実を言うと知っている。
この間、病院の待合室で、私の前にカルテを積んだワゴンがあった。
私のカルテが見えた。ドイツ語だけど、スペルをメモして辞書で調べた。
だから知っている。一度、お礼を言いたかった。皆にもヨロシクね」
(第一章のみ転載させていただきました。)
ウルトラクイズのプロデューサーとして交渉事を担当し
ウルトラクイズを影で支えた井上さん。
僕は井上さんを主人公としたドラマを見たくなったのですが、
テレビマンユニオンさん制作してくれないでしょうか・・・。
下記「亡き井上雅子さんへのオマージュ」より
井上雅子
①1949年 ②1974年 ③「蒸気が世界を動かした。」「感動の時~科学者と語る~」「マンウオッチング」「女性写真家エンジェルの世界」など主として科学ドキュメンタリーのプロデュース、演出。「アメリカ横断ウルトラクイズ」はプロデュース7回、演出1回を担当。1988年1月15日逝去(38歳)
(①誕生年 ②メンバー参加年 ③経歴)
過去記事
テレビマンユニオン史とウルトラクイズ
テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(2)
テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(3)