第4CPコアタイムとは?

アメリカ横断ウルトラクイズと昔の高校生クイズが好きな管理人が気ままに書き綴るブログです。
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テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(3)

前回:テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(2)の続きです。

「テレビマンユニオン史」に白井博さんが第十回のウルトラクイズを最後に
番組から降りた理由が書かれていた。

四〇代も演出を担当すると墓名にウルトラクイズと書かれるのではないか

とありましたが、僕の中ではどうも引っかかるものがある。
それは白井さんと一緒にウルトラクイズのプロデューサーをしていた
井上雅子さんの存在です。

白井さんのエッセイにもありましたが、
井上さんは昭和63年(1988年)1月15日に他界。

既に亡くなられているため、「テレビマンユニオン史」には
「女たちのテレビマンユニオン 亡き井上雅子さんへのオマージュ」として
坂本良江さんの書いたエッセイがありました。

それによると、井上雅子さんはテレビマンユニオンの二期生。
採用試験の時、

時折上げる顔にキラキラとした瞳が輝いていて、私たちは彼女の答案を一行も読んだわけでなく面接のインタビューひとつしたわけでもないのに、この人は私たちの仲間になる人だと直感していた。

と筆記試験の段階から一際輝いていたようです。

ここからウルトラクイズの話が登場しますが、
井上さんの功績が大きかった事が伺えます。

 

ともすれば「オレがオレが」になりがちなテレビマンユニオンにあって彼女の明るく穏やかな、それでいて不可能を可能にしてしまう才能にどれほど私たちは助けられていただろうか。
数々の仕事の中でも歴史に残る番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」で果たした井上さんの功績は大きい。
アメリカ側でコーディネーターをしてくれたマージー・スマイロウが日本でウルトラクイズの受賞パーティーに参加したことがある。檀上に上がるプロデューサー、ディレクターたちの顔ぶれを見たマージーは「マサコ イズ ザ プロデューサー」とつぶやいた。アメリカですべての交渉ごとを仕切っていた井上さんの働きを最も良く見ていた人だ。当の井上さんは会場の一般客に交じって微笑んでいた。

 

ウルトラクイズではアメリカの各地でクイズを行いますが、中には「ホワイトハウスの前でクイズを行う」(第3回)など、「はい、いいですよ」と簡単に許可を得る訳には行かないシチュエーションもあったと思います。ウルトラクイズを行う上で交渉事はつきもののはず。

僕が大好きな場面の一つに、第5回ウルトラクイズ・ノックスビルの敗者インタビューがあります。
敗者となった佐藤初江さんのインテビュー中に行われた結婚式も、井上さんが現地で交渉することによって可能になったのではないか?(ひょっとしたら、結婚式のアイデアも井上さんが!?)そんな事を思いました。

 
井上さんにとって最後のウルトラクイズロケの時に私は別件でニューヨークに滞在していた。マージーから電話が入った。「マサコが帰ってこない」 たいていのことには動じないマージーの声が緊迫している。井上さんは納期が遅れている番組の景品「潜水艦」の工場へ直談判に飛んでいた。
トラックに潜水艦を積んでニューヨークへ向かう途中、数十年ぶりという大型ハリケーンに遭遇、車が運転不能となり大幅に到着が遅れたのだ。悪天候の中、深夜のハイウェイをトラックドライバーと二人だけの旅、どれほど緊張した時間だったことか。

 

第9回アメリカ横断ウルトラクイズの優勝賞品「小型潜水艦」。
「お母さんヤッタ号!」あの潜水艦にこんなエピソードがあったんですね。
(ただ、その時の賞品地はサイパンなので、ニューヨークからサイパンに輸送したのかというちょっとした謎はありますけど。)
女性と外国人ドライバーの二人だけの旅は心労が大きいはず・・・。

 
井上さんはたくさんのトゲを我が身に引き受け、わずか三八歳の若さで癌で逝った。
ウルトラクイズの担当を外れて子供を産みたいと言っていた望みは叶えられなかった。
井上さんには番組の企画や未来のプロジェクトのアイディアがたくさんあった。
その全てが志なかばで終わってしまった。

 
第9回アメリカ横断ウルトラクイズから約2年半後。
井上さんは38歳の若さで亡くなってしまいます。
第10回の頃にはもうウルトラの旅は無理だったのかもしれない。

ウルトラクイズで交渉事を担当していた井上さん。
井上さんの人柄に加え、「不可能を可能にしてしまう才能」。
(素晴らしい交渉術を持っていたのだと思います。)
もはや「出来るスタッフ」という言葉以上の存在だったのかもしれません。
白井さんにとって、井上さんが抜けてしまったのは大きかったと思います。

第10回ウルトラクイズは井上さん抜きで制作されたようですが、
それを最後に白井さんはウルトラを降板。
やはり井上さんが抜けてしまった影響が大きいのでは?と僕は推察します。
真実は白井さんにお聞きしないと分からないでしょうけど、
例え白井さんにお聞きできる機会があったとしても、本音を話していただけないとは思いますが・・・。

テレビマンユニオン史に、その後の井上雅子さんの事が書かれています。
これが胸を打たれる話で、皆さんにも読んでもらいたいので
後日改めて書きます。
(「テレビマンユニオン史」に関する話はまだまだ続きます。)

前々回:テレビマンユニオン史とウルトラクイズ

前回:テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(2)
次回:テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(特別編) ←追加しました

 

おまけ
第2回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝した北川さんのHP、
北川宣浩記念クイズ館第2回ウルトラクイズのフォトギャラリーがあって、
その中に北川さんと一緒に写っている井上さんの写真があります。リンク
(井上さんには「才色兼備」という言葉が似合いますね・・・。)


2 Responses to “テレビマンユニオン史とウルトラクイズ(3)”

  • UQ18:

    >BOWさん
    ありがとうございます!
    あと2回はウルトラの事を取り上げたいと思っています。
    あの番組が分かったのですか!
    もしブログで取り上げていただけるのでしたら、拝見させていただきますので^^

  • BOW:

    当時のウルトラスタッフの思いがわかって、かなり面白いです。思わず5回は読んでしまいました。
    まだ、ご飯10杯はいけます^^
    こちらも、どこにいったかなぁと思って探していたら、やっと出てきました。ウルトラクイズの前審的番組です。

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